大判例

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盛岡地方裁判所 昭和55年(ワ)208号 判決

原告

甲野一郎

原告

甲野花子

右両名訴訟代理人

菅原一郎

菅原瞳

被告

学校法人岩手奨学会

右代表者理事

三田義一

右訴訟代理人

永井一三

被告

大平慶次郎

右訴訟代理人

石川克二郎

豊口祐一

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

(請求の趣旨)

一  被告らは各自、各原告らに対し一一二一万円及びこれに対する昭和五五年六月二〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  仮執行の宣言

(請求の趣旨に対する答弁)

被告両名とも主文同旨

第二  当事者の主張

(請求原因)

一  被告学校法人岩手奨学会(以下「被告学校法人」という。)は盛岡市長田町に岩手高等学校(以下「岩手高校」という。)を設置しているが、原告ら夫婦の長男甲野次郎(昭和三六年一月一五日生、以下「次郎」という。)は昭和五三年四月岩手高校の第一学年に入学し、同校が特別教育活動の一環として行つている野球部(以下「野球部」という。)に入部し、その部活動に参加していた。

被告大平は肩書住所において内科、小児科を診療科目とする大平医院を開業している医師で、岩手高校の校医である。

二  次郎は野球部が昭和五三年八月四日から七日間岩手高校に泊り込んで行う夏期合宿に参加したが、その初日の同月四日右合宿訓練中体調に異常をきたし、大平医院に運ばれ、被告大平の診療を受けたが死亡した。

その経過は次のとおりである。

1 合宿第一日目の八月四日、野球部員達は午前一一時頃に昼食をとり、同一一時三〇分頃学校を出発、盛岡市下太田雫石川河川敷にある岩手共済連野球場までランニングをしていつた。

2 同一一時五〇分頃、同野球場に到着した部員達は約一〇分間休憩したのち、準備体操をしてから、グランドを二〇周するランニングを開始した。右ランニングに参加していた次郎は、後半になつてから体調に異常を感じ、野球部主将後藤博(以下「後藤」という。)および同監督明戸均(以下「明戸監督」という。)にランニングを途中で打切りたいと申入れたが、同意を得られず、やむなく、他部員らよりいくらか遅れながら完走した。

3 ランニング終了後、キャッチボールの練習が開始されたが、次郎は体調が思わしくないのでこれに参加せず、ライト守備位置付近で他部員らの練習を見ていた。この途中で、前主将の中野由紀雄(以下「中野」という。)(三年生)が次郎に一緒にキャッチボールをやろうと声をかけたが、次郎は断わり、一方同人がふらふらしているのを心配した中野は次郎に休息するようすすめた。

4 そこで、次郎は一塁側ベンチの地面に横になつて休んだりしていた。しばらくして野球部部長井藤博教諭(以下「井藤部長」という。)がはじめて次郎の異常に気づいたが、濡れタオルで次郎を冷やしたに止まり、そのまま地面に横たわらせていたので、次郎の容態が悪化し、意識も半ば失われるようになつた。容態の悪化にあわてた井藤部長は次郎を自己所有の乗用車に乗せ、大平医院に運んだ。

5 次郎が大平医院に運び込まれたのは午後一時三〇分頃であつたが、この時には次郎の体温は四二度近くにあがり、意識も失われていた。被告大平は次郎を日射病と診断し、治療を行なつたが、次郎の症状が増悪していつたため、大平医院の医療能力では治療困難と判断し、同三時過ぎ頃、原告らに転医させることの同意を求めた。たまたま、原告一郎が岩手県立中央病院職員であるところから、同原告が、同病院に転医する手続をとつたが、すでに手遅れで、同三時三〇分頃次郎は大平医院において、日射病・急性心不全で死亡するに至つた。

三  被告両名には次郎の死亡に関し、以下に述べるような債務不履行責任がある。

1 被告学校法人について

被告学校法人は、次郎を入学させるにあたり、同人との間で、同人を岩手高校で教育を受けさせることを目的とする在学契約を締結したが、右在学契約の本質的な義務として学校生活のすべての面で次郎の生命、健康に危害が生じないように万全の注意をつくすべき安全配慮義務を負担している。

そして井藤部長及び明戸監督(野球部OB)は、被告学校法人の履行補助者として合宿練習に参加していたのであるから、練習中の部員の健康状態について常時注意を払い健康保持に努めるとともに、部員の健康状態に異常を発見したときは、ただちに練習を中止させ、休息をとらせるなど適切な措置をとるべき義務があるところ、両名には次のような義務違反があり、その結果、次郎を死亡するに至らしめた。

(一) ランニングの後半で、次郎は体調に異常を感じ、ランニングの中止を申入れたのであるから、両名は、その時点で次郎の練習を打切らせ、休息させるべきであつたにもかかわらず、そのような措置をとらなかつた。

(二) キャッチボール練習の段階で、次郎は練習への参加を避けており、両名はこれを知つていたのであるから、次郎に健康状態を確かめ、涼しい所で休息させるなどの措置をとるべきであつたのにもかかわらず、そのような措置をとらなかつた。

(三) 遅くとも、次郎が地面に横になつた時点で、同人が日射病にかかつたことを認識しえたはずであるから、ユニホームを脱がせるなど体温をさげるための応急措置をとるべきであるのに、むし暑い雑草のうえに横にしたままで、濡れタオルで冷やすことしかしなかつたため、その間に次郎の症状は急速に悪化し、その結果死亡するに至つた。

2 被告大平について、

被告大平は次郎に対し、同人の症状を適切に診断、治療すべき医療契約にもとづく債務を負担していたが、初診時に、次郎が重篤な日射病にかかつていると診断したのであるから、ただちにユニホームなどを脱がせ、涼しいところに置き、身体を冷却するなどその回復に必要適切な治療を行なうべきであつたのに、これらを怠つたため、日射病による急性心不全で死亡させるに至らしめたものであるから、被告大平にも債務不履行責任がある。

四  被告両名の本件債務不履行により生じた損害は次のとおり三四四二万円を下らない。

1 次郎の逸失利益

次郎が岩手高校を卒業して就職したとすれば、一八歳から六七歳の平均可働年令まで就労して収入を得たはずである。そこで、昭和五三年の全労働者男子平均賃金を基礎とし、生活費をその二分の一とし、これにホフマン係数を乗じて次郎の逸失利益を計算すると、二二四二万六一六四円となる。

(273万1700円×0.5×16.4192=2242万6164円)

2 次郎の慰藉料

一〇〇〇万円が相当である。

3 損益相殺

原告らは右次郎の損害を各二分の一の割合で相続したので、原告らの損害額は各一六二一万三〇八二円であるところ、日本学校安全会から各六〇〇万円宛次郎の死亡による給付を受けたので損益相殺をするとその損害額は各一〇六二万三〇八二円となる。

4 弁護士費用

原告らは原告ら訴訟代理人に対し、本件の訴訟委任をし、報酬総額として各自一〇〇万円を支払うことを約した。

五  よつて、原告らは被告ら各自に対し本件損害賠償金各一一二一万円(一万円未満の端数切捨)及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五五年六月二〇日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

(請求原因に対する被告学校法人の認否)

一  請求原因一の事実は被告大平が岩手高校の校医であることは否認し、その余は認める。

二  同二の事実について

前文記載の事実は認める。1の事実は認める。2の事実中次郎がランニングの途中にこれをやめたいと明戸監督に申入れたことは否認し、その余は認める。3の事実は認める(ただし、ライト守備位置とあるのはファールグランド一塁付近であり、中野は次郎がふらふらしているのを見て休息をすすめたのではない。)。4の事実中井藤部長、明戸監督らの看護が不十分であつたとの主張事実は否認し、その余は認める。5の事実は次郎が大平医院に運び込まれた時刻が午後一時三〇分頃であることは否認し、その余は認める。次郎が同医院に運ばれた時刻は午後一時頃である。

三  同三の1は井藤部長及び明戸監督が被告学校法人の履行補助者であることは認めるが、その余はすべて争う。

四  同四は争う。

(被告学校法人の主張)

次郎は一六歳一〇ケ月の健康体で、野球部入部以来真面目な練習態度と持てる素質、体格の良さから将来を期待されていた。入校後の六月下旬体の不調を申出て医師の治療を受けたが、間もなく回復したとの報告があり、七月三日から練習に復帰し、以後特に体調が不調であるとの申出はなく、元気に練習をしており、学校側では合宿開始時のミーティングでも、その体調に異常のないことを確認している。そして、野球部の訓練内容にも無理な点はなく、かつ、本件当日の訓練中明戸監督井藤部長は次郎から、体具合が悪いとか訓練がきついとの申出を受けた事実はなく、またそのような様子も認められなかつた。学校側で次郎の異常に気づいたのは、井藤部長がグランドに駐車していた自家用自動車内で昼食を終え、車外を見た際、次郎が急にふらふらとよろめいて仰向けに倒れる姿を目撃した時であり、その時刻は午後零時五五分頃であつた。そして、当日の天候は午前中時々小雨、午後は曇り、正午の気温二五度とそう暑くはなく、次郎が倒れた時に、その原因が日射病にかかつたためであると考えることはできない状況であつた。次郎が倒れてから、井藤部長及び明戸監督は濡れタオルで頭を冷やし、靴を脱がせ、ベルトをゆるめ、前をはだける等して看護するとともに、速やかに手配をし、井藤部長の自家用車で午後一時頃には大平医院に運んで、被告大平医師の手当に委ねたのである。

かような次第で、被告学校法人に過失はないから、次郎の死亡につき帰責事由はない。

(請求原因に対する被告大平の認否)

一  請求原因一の事実は、被告大平が岩手高校の校医であることは否認するが、その余は認める。

二  同二の1ないし4の事実は不知。同二の5の事実中次郎が大平医院に運び込まれた時刻が午後一時頃であること、その時の次郎の体温が四二度Cであつたこと、その死亡原因が日射病であることは否認(ただし、本件当日死因を日射病と診断したことは認める。次郎が運び込まれた時刻は午後一時三〇分頃である。)し、その余は認める。

三  同三の2は争う。

四  同四は争う。

五  次郎が被告大平の医院に手当を求めて運ばれてきた時の状況、治療の内容、死亡するまでの経過は次のとおりであつて、被告大平としては万全の治療を尽したものであり、診療上の債務不履行はない。

次郎が被告の医院に運びこまれたのは午後一時三〇分頃で、午前中の診療が終了し被告大平及び看護婦が昼食をとろうとしていた時であつた。看護婦の一人から「先生急患です」との知らせがあつたので「食事を摂つてからしたらどうだ」と答えたところ、「患者は意識が全々ないようですから早く御願いします」とのことであつたので、すぐ診療室に行つて患者を診たところ余りの重篤な状態であつた。

すなわち、体温四〇度、意識不明、血圧は最高約水銀柱五〇ミリ最低は測定不能、脈搏微弱で一分間一二〇前後、呼吸数一分間約三〇程度、四肢末端にチアノーゼ(冷寒となり且つ青白くなること)が認められた。

当日の気温と搬入者の説明により「日射病による心不全」と診断し、救急の処置をとることにした。この時他の病院に移送することを考えたが、患者の状態が余りの重篤のため動かしてはならないと判断した。

そこで看護婦長及び看護婦全員に昼食を摂ることを中止し、午後来院した患者の受付けを全部断わり、被告大平と看護婦全員で治療に当つた。

まず、ベッドに安静にして、シャツをはさみで切開して胸部を開いて通風を考え、頭部は氷枕で冷却して下熱を考え、クーラーを入れて冷却を計り、四肢が冷却していたので血液の循環を考え、足の方には湯タンポを入れた。

意識不明で内服が不能なため、補液の目的で五パーセント五〇〇CCブドウ糖並びに各種のビタミン剤並びに強心剤を使用し、また脳浮腫並びにショックを考え、副腎ホルモンを注射使用し、全員患者に附添い、側を離れず、病状に好転を願いつつ治療に努め、その間病状により反覆注射を繰返した。

しかし、一向に病状は好転せず、脈はますます微弱となり、時々停止する不整脈をきたし、意識は全く回復せず、喘鳴をきたす様になり、補液の目的で一パーセント食塩水五〇〇CCを鼻腔注入を行つたが、嘔吐のため不可能であつた。

以上の経過で、在院二時間の懸命な加療の甲斐がなく、午後三時三〇分死亡した。なお、死後の午後四時半頃警察の監察医官が検死した時の体温は四〇度二分あり、異常体質の疑がある。

(被告大平の主張)

次郎が被告医院に運ばれてきた時は既に熱射病に起因する重篤な急性心不全の状態にあつた。すなわち、体温40.6度という高温で、意識は消失しており、血圧は最高水銀柱五〇ミリメートル、最低は測定不能、脈搏は甚だ微弱、瞳孔は散瞳していて対光反応が殆んど見られず、四肢末端けいれん、冷寒という状態であり、相当重篤であつて、高率で死亡する可能性が多かつた。頭に血液が行く最低の血圧は平均血圧で五〇ミリであるという学会の定説からすれば、意識消失に加え、最高血圧でさえ五〇ミリであつた次郎の場合は、既に脳へ行く血液が非常に少ないか、あるいはほとんど途絶に近い状態になっていたことが推定される。したがつて、次郎はいわゆる不可逆性のショック、すなわちどのような処置をしても大半がそのまま死亡するというショック状態で被告医院に運び込まれたものである。これに対し被告大平がとつた処置は既に述べたとおりであるが、次郎が被告医院に運ばれてきてから死亡するまでの間、右に述べた症状にはほとんど目立つた変化は見られず、極めて重篤な状態が続いたままに終始した。次郎が名前を呼んでも答えないような意識障害の状態に陥つたのは野球場で倒れた直後からであり、被告医院に運ばれてきたときは既に手遅れの状態であつたと見なければならず、被告大平の懸命の治療にかかわらず、死亡に至つたものである。

(被告らの主張に対する原告らの認否)

被告らの主張はいずれも争う。

第三 証拠〈省略〉

理由

第一争いのない事実

被告学校法人が岩手高校を設置していること、被告大平が内科小児科医院を開業する医師であること、次郎が原告ら夫婦の長男であつて、昭和五三年四月岩手高校第一学年に入学し、同校が特別教育活動として行つている野球部の部員であつたこと、次郎が同年八月四日同部の合宿訓練に参加したが、その間身体に異常をきたし、井藤部長により大平医院に運ばれ、被告大平の診療を受けたが、同日午後三時三〇分頃死亡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

井藤部長及び明戸監督が被告学校法人の次郎に対する安全配慮義務の履行補助者であることも、原告らと右被告との間に争いがない。

第二次郎の死亡原因

次に次郎の死亡原因について判断する。

一〈証拠〉によると、八月四日の盛岡市における午前九時の天候、温度(摂氏)及び湿度(パーセント)は、上記の順に記すと、晴、25.4度、八一であり、正午のそれは曇、二五度、九〇、午後三時のそれは曇、25.6度、八〇であり、同日の最高温度は午前一〇時三〇分の27.6度、最少湿度は午後四時〇五分の七〇パーセント、日照は午前一一時から正午までと正午から午後一時までの間に、いずれも六分だけであることが認められ、右認定に反する証拠はない。

二〈証拠〉によると、

1  被告大平の次郎に対する診療は午後一時二〇分頃に開始された。同被告は診察室に附添つていた井藤部長から後に認定するそれまでの経過を聞いた後、次郎の名を呼んだが返事はなかつた。

2  そこで同被告は次郎の瞳孔を調べ、脈搏数、血圧を測定し、聴診器で心臓の音を聴く一方、看護婦に体温を測るように命じ、更に白血球数を検査した。右診察の結果は、意識消失、瞳孔散大脈搏微弱かつ一分間に一二〇の頻脈、最高血圧水銀柱五〇ミリメートル、最低血圧測定不能、体温40.6度、心音微弱、白血球数一万であり、これらから同被告は、次郎が日射病末期・心不全の状態にあり、もはや日射病に対する治療を施すべき段階ではなく、主に心不全に対する治療をなすべきであると判断し、概要次のような治療を行なつた。即ち、五パーセントブドウ糖五〇〇CCに脳循環、血管障害を改善する目的でチオクタン五CC二A、補液及び血液の酸性度を少くする目的でジウタミン二〇CC二A、レボラーゼ五〇mg、ビドキサール一〇mg、ビタカンファー二A、ジギラノーゲンe一Aなどを混入したものを点滴静注し、ほかに脳浮腫の治療と循環不全改善の目的でステロイドホルモンの筋肉注射を一回、低血糖改善の目的で四〇パーセントブドウ糖液四〇CCを静脈注射し、けいれんに対しフェノバールビタール0.5CCを皮下注射した。また、足が乾き、その末端が冷たくチアノーゼ様状態を示しかつけいれん硬直していたことから、血液循環の改善及び解熱を目的として、胸から足にかけて毛布をかけ、湯たんぽを入れた。そのほかビタカンファ計六本を五本ないし一〇分間の間隔で注射した。一本目の点滴静注をしている間に次郎の顔色が赤くなつた。午後二時二〇分頃被告大平は看護婦に氷枕を持つて来るように命じ、次郎にかけてあつた毛布を取り、汗のためぐしやぐしやにぬれたアンダーシャツを切り裂いてぬがせ、氷枕をするとともに氷水でぬらしたタオルを額と胸に置いて冷やした。

3  被告大平は午後二時半頃までに一本目の点滴静注を終え、その頃前と同量同一内容の二本目の点滴静注をし、なお意識が回復しなかつたことから、二〇パーセントプドウ糖液二〇CCにルシドリール二〇〇mgを混入したものを二回静脈注射し、更に、それまでの治療によつても次郎の容態に好転の兆が認められなかつたことから、通常の日射病の場合になすべきことを施そうと考え、卓弥の鼻からカテーテルを胃に通して0.1パーセントの食塩水を三〇〇CCないし五〇〇CCを二本飲ませたところ、一本目は体内に入つたが、二本目になつてから次郎はむせた状態になり、これを吐いた。そして、同三時過ぎ頃から次郎は喘鳴をさせるようになり、同被告は、これに対して二〇パーセントのブドウ糖液二〇CCにネオフビンを入れたものの静脈注射、クライスリンの皮下注射を三回、二〇パーセントブドウ糖液にビタカンファ三A混入したものの静脈注射をした。そのころの次郎の体温は41.5度であつた。そして、その頃被告大平は自分の医院では処置できないことを慮り、転医をさせることとしたところ原告らの意向により救急車が手配され、救急車が到着したが、同三時三〇分頃次郎は同医院で死亡した。

三〈証拠〉によると、日射病は強い日光の直射を頭部、頸部に受けたとき、熱射病は高温、多湿の環境で労働又は運動しているときに起る発熱状態であるが、右両者は病態生理学的に同一であり、治療法としてはできるだけ体温を正常域まで下げることであるが、急速に直腸温度が三九度以下に下らないように注意して行わなければならないし、既に心不全の徴候を示す場合は強心剤を投与しなければならないことが認められる。

また、〈証拠〉によると、日射病は日光の物理的な作用により皮膚の血管が拡張し、これに対し心臓から駆出する血液が不足して倦怠感、めまい、頭痛、朦朧状態が起り昏倒したりするが、四〇度以上の高熱を発することは稀で、長時間放置しないかぎり心不全には至らず、心不全になつても重症のものには陥らないこと、熱射病は体内の熱の産生に比して体温の放散が円滑に行われず、熱がこもつて体温が極度に上昇し、ショック状態(ショックとは循環系を主とした症候群であつて、全身の臓器の抑制が原因となつて起きる血圧の低下、頻脈、意識消失を伴う状態をいう。)に至る疾病であることを認めることができ、この認定を妨げるに足りる証拠はない。

右に説示した日射病及び熱射病の病理、症状、治療法及び相互の相違点とさきに認定した本件当日の天候、気温及び湿度並びに被告大平の許に運ばれた時以後の次郎の病状及びこれに対する同被告の治療内容とを対比して検討すると、次郎は八月四日午後一時頃には既に熱射病に罹患しており、熱射病を原因として急性心不全に陥り死亡したものと認定することができ、〈証拠〉中、次郎の直接の死亡原因である心不全をきたした原因が日射病である旨の各記載は〈証拠〉と対比して採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

第三被告学校法人の責任について

被告学校法人が岩手高校の特別教育活動の一環として野球部を設け、部活動を行つている以上、各生徒との在学契約に基づき、同部において野球の練習その他の運動を実施するにあたり、生徒たる部員の生命及び健康を危険から保護するよう配慮すべき安全配慮義務を負つているものと解するのが相当である。そこで、被告学校法人の右安全配慮義務の履行補助者である井藤部長及び明戸監督において、次郎の本件合宿訓練に関し、熱射病に陥らないようその健康に配慮すべき義務につき、原告ら主張のような義務違反があつたか否かについて判断する。

一〈証拠〉によると、

1  次郎は野球部に入部した後の六月二八日から三日間、腹痛のため岩手県立中央病院消化器科に入院して精密検査を受けたが、消化器系統に異常はないと診断され、本件合宿当日まで平常の部活動に参加していた。

2  合宿開始当日の八月四日午前九時半頃から一〇時半頃まで、岩手高校三年A組の教室において、ミーティングが行なわれ、明戸監督が合宿の目的(団体生活の訓練、体力作り、集中力の養成)、練習の内容などを説明したほか、現在の健康状態に悪いところはないかと問うたところ、部員の一人から腰疾のため練習には参加できないとの申出がなされたが、次郎からは何らの申出もなかつた。その後、明戸監督らは同一〇時半頃から休憩時間とし、そこで昼食を摂るように指示したが、次郎は水木と「食べると体の調子を悪くする。」などと話し合つて、これを摂らなかつた。

3  次郎を含む二〇数名の野球部員は、同一一時半頃岩手高校をランニングで出発し、約二〇分後にグランドに到着した。そして、約一〇分間休憩し、午後零時頃から体をほぐすための軽いランニング及び準備体操をした後、同零時一五分頃から、一周約二〇〇メートルないし三〇〇メートルのコースを一周約一分間のペースで合計二〇周するランニングを開始した。次郎は三列縦隊で走る集団の最後尾付近に位置して走つていたが、一七周目頃になつて身体の不調を覚え、具合が悪くなつたと言い出したところ、付近の者から後藤に言うように言われ、先頭を走つていた同人に追いついて、その斜め後方から「休ませてくれ。」と声をかけた。後藤は、これまで、練習の途中で休みたいという者があれば休ませるようにしていたが、この時はあと三周で二〇周になるという区切りを考え、次郎に対し「どこが悪いか。」と問うたが、その顔は見ないまま、付近を走つていた他の二年生とともに、「もうちよつとだ、頑張れ。」と言つた。この言葉に、次郎は元の位置に戻り、付近の者に「頑張る。」と言い、集団から二、三メートル位おくれながらも、二〇周を走り終えた。右ランニングの後、特に一年生は疲れたと言つていた。その後、部員は一旦一塁側ベンチ付近に集まつて明戸監督の話を聞いた後、同零時三五分頃から、グランドに散開し、一対一のキャッチボール練習に移つたが、次郎はこれに加わることなく、一人だけ一塁側ファウルグランドにおいて中腰の玉拾い姿勢をして練習を見ていた。中野はそのような次郎を見つけてキャッチボールをしないかと声をかけたところ、同人は医者に止められているためできないと断わつた。中野は、次郎が肩でも痛めているのかと思い、一方、同人が足を少しふらつかせているのを見て、疲れていると思つて、同人にベンチで休んでいるようにと言つた。その頃後藤は次郎に対し、トスバッティングで使うバットを並べるように言い、これに対し次郎はどのバットにするかなどと問い返してバットを持とうとしたが、中野はこれを見て、次郎に対しなお休むように言つた。その後、ベンチの後方で地面に腰を下ろして休んでいる次郎の近くにキャッチボールのボールが転がつて行き、中野が見やると、他の部員たちが草むらからそのボールを探し出して持つて行つた後もなお次郎がこれを探しているかのような様子であつたので、中野は次郎を制して「休んでいろ。」と言つた。そして、中野が再びキャッチボール練習をしている部員らに目をやつていたところ、背後に足音がしたので振り向くと、次郎が倒れており、井藤部長が走り寄つて来るところであつた。

4  これに先立ち、明戸監督と井藤部長は同零時半頃井藤部長の車で岩手高校を出、同零時半過ぎ頃、グランドに到着した。明戸監督が見ると、部員らは一団となつてランニングをしており、その最後尾から二、三メートルおくれて走つている者が一人いた。同監督はこれが次郎であることまではわからず、また、それ位おくれて走る者がいることは通常のことであり異常は感じなかつた。その後、明戸監督は、キャッチボール練習をしている部員の間を歩きながら、ボールの投げ方などを指導していたため、その間の次郎の状況には気づかず、井藤部長に呼ばれて初めて異常に気づいた。一方、井藤部長は、グランドに到着した後、車内から部員らの練習を見ていたが、集団からおくれて走つている者がいたこと、一塁側ファウルグランドに中腰の姿勢で練習を見ていた者がいたことには気づかず、その後、同部長が車内での昼食が終わるころ目をやると、中野が一塁側ベンチ付近で誰かと話をしており、その前後に、誰かがボールを探しているような仕草をしていたところ、突然ふらふらと仰向けに倒れた。そこで、同部長が車から降りて、走り寄つてみたところ、倒れたのは次郎であることがわかつた。その時刻は同零時五〇分頃から同一時ころまでの間である。

5  井藤部長が見たところ、次郎はグラブを肩のところに敷き、仰向けになり、目を閉じ、赤い顔をして汗をびつしよりかいており、「甲野どうした。」と声をかけても返事はなかつた。そこで同部長は明戸監督を呼ぶとともに、部員らの方に向かつてタオルを持つて来るように叫んだところ、石川元喜がタオルを持つて来たので、水道の水でこれをぬらして次郎の額に載せた。一方、明戸監督も、次郎の名を呼び、ベルトをゆるめ、ユニホームの胸を開かせ、スパイク、ストッキングをぬがせた。同監督は次郎が名前を呼ばれても目をつむつたままであつたことから、今度は頬を叩いて名前を呼んだが、意識がない状態であつた。そこで、一旦は救急車を呼ぶことも考えたが、電話があるところまで五分位かかることから、井藤部長の車で病院に連れて行くこととし、同部長が自家用車助手席の背もたれを倒し、クーラーを点けた上、明戸監督らが次郎を車内に運び込んで助手席に横たえ、後部座席に中野が同乗し、井藤部長が運転してグランドを出発した。同部長はどの病院に行くか迷つたが、かねてから岩手高校では内科的な病気が発生した場合には生徒を同校近隣の大平医院に連れていくのが通常であつたこと、同医院であれば転医のための大病院にも交通が至便であることなどから同医院に赴くこととし、約五分ないし一〇分で同医院に着いた。その間に次郎の容態には格別の変化はなかつた。同病院に到着した時刻は午後一時一〇分頃である。

以上の諸事実を認定することができ、原告両名の各本人尋問の結果中右認定に抵触する部分は、すべて後日の伝聞に基づく供述であつて、これを支持すべき的確な証拠はないから措信することができず、証人中野由紀雄、同後藤博の各証言中、次郎はグランドで倒れた直後は名前を呼ばれると一応返事をした旨の供述部分は、証人井藤博、同明戸均の各証言と対比してたやすく措信することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右に認定した諸事実と先に認定した八月四日の天候、気温及び湿度並びに熱射病の病理及び症状とを対比し、更に前顕証人浦沢玲児の証言に基づいて検討すると、グランドで倒れるまでの次郎の熱射病による身体状況は次のようなものであつたと推認するのが相当である。

次郎は、当日の高湿度と過重服装というべき野球のユニホームとによつて、ランニングの一七周目頃までに熱感・頭痛など熱射病の初期ともいうべき症状を自覚したが、前認定の経緯で、これを我慢しながら更に六〇〇メートルないし九〇〇メートルを走つた。その後、一塁側ファウルグランドやベンチ付近などで休んでいたが、その間に熱射病は更に悪化し、体温・血圧が上昇し呼吸脈搏数が促進、頭痛・眩暈・倦怠感。疲労感などを覚えていた。この時期に前述の悪条件が改善されれば、それだけで右のような症状は消滅することが予想された。しかしながら、依然として改善されなかつたため、体温が更に上昇し、人事不省となつて昏倒した。

二そこで、以下に請求原因三の1の各主張について判断する。

1 (一)の井藤部長及び明戸監督は、次郎がランニングの中止を申入れた時点で、その練習を打切らせ休息させるべきであつたとする点について

確かに、前認定のとおり、次郎はランニングの一七周目頃には熱感・頭痛など熱射病初期の症状を自覚したが、次郎は井藤部長及び明戸監督に対し、ランニング中止の申入をした事実はなく、右両名は次郎の右症状を知る由もなかつたのである。もつとも、右両名において練習の開始までにグランドに到着し、ランニング中の各部員の様子を仔細に監視し、不審な様子が見られた場合、練習を中止させてその身体の状況などを問い質すという指導監督の方法を採つていれば、次郎が後藤に中止を申入れる前後の次郎の動静を知ることができ、ひいては、同人から体具合が悪いことを聞き出すことが不可能でなかつたといえるかも知れない。しかしながら、本件合宿の参加者はいずれも高校一、二年生であつて、その判断力も成人に準ずる程度に達しているのであるから、井藤部長らの指導監督の程度も、部員らのそのような判断力を前提とする程度のものであれば足り、当日の天候、気温などの自然的条件や部員の体力・身体的状況のほか、練習の種類・程度などの諸点に鑑み、高校野球部の部長あるいは監督として通常有すべき経験則上、何らかの疾病・事故の生ずることを予見することが可能であるような特段の事情のある場合は格別、そうでない限り、部員らの練習の模様を逐一監視することまで要求されないものと解するのが相当であるところ、本件において右特段の事情があることの立証はない。

してみると、井藤部長及び明戸監督において次郎のランニングを中止させ、休息させなかつたことに責められるべき点はない。

2 (二)の井藤部長らがキャッチボール練習の段階で次郎に対し、その健康状態を確かめ、涼しい所で休息させるなどの措置をとるべきであつたとする点について

井藤部長及び明戸監督は次郎がキャッチボール練習に加わつていないことに気付いていたことの証拠はなく、また前段で説示したように同部長らが部員の行動を逐一注視すべき義務がないばかりか、次第に症状が悪化しつつあるこの段階においても次郎は、同部長らに身体が不調であることを申出ようとせず、かえつて、中腰の玉拾いの姿勢で練習を見ており、そのうえ、後藤の指示に応じてバットを並べようとし、それを中野に制されてベンチで休むように言われた後も、草むらにころがつて行つたボールを探そうとするなどの行動をとつているのであり、仮に練習中の部員の誰かが同人の行動に気を配つていたとしても、これらの者が次郎の身体に異常が起つていると看取しえたとすることはできず、部員の一人として次郎の体調が悪化していることを知り得たものはいないのであるから、井藤部長らが次郎の異常に気付かなかつたとしても、責められるべき点はないものといわなければならない。したがつて、原告らの右主張もまた採用することができない。

3 (三)の次郎が倒れた時点では、次郎の日射病罹患を知り得たはずであるから濡れタオルで冷やすだけでなく、ユニホームを脱がせるなど体温を下げるためのより強力な応急措置を講ずべきであつたとする点について

次郎の死因は熱射病に帰因する急性心不全であるところ、井藤部長らが熱射病なる病気の存在あるいはその発生機序を知つていたか否かは甚だ疑問であるところ、その点はさておくとしても、当日の気候条件の下で医師である被告大平も、数種の検査の後、はじめて、日射病と診断していることに徴すれば、次郎が昏倒した時点で、次郎が熱射病に罹患していることを井藤部長及び明戸監督において認識することができたということはできない。しかも、右可能性を云々するまでもなく同部長らは昏倒した次郎に対し、応急の手当を施した後、時を移すことなく同人を医師の許に運んでいるのであり、その治療先として総合病院を選ばず、被告大平を選んだのも、かねてからの岩手高校における取扱いに従つたためという事情を総合考慮すれば、同部長らとしては、ほぼ最善を尽くしたともいいうるものであり、次郎昏倒後の同部長らがとつた措置になんらの義務違反はない。したがつて、原告らの右主張もまた採用することができない。

してみると、被告学校法人には帰責事由がないとの主張は理由がある。

第四被告大平の責任について

一被告大平が次郎を診療したことは当事者間に争いがなく、次郎が意識のないまま井藤部長らによつて被告大平の許に運ばれ、診療を受けたことは前認定のとおりである。原告両名の各本人尋問の結果によると、原告両名は井藤部長から電話連絡を受けて大平医院に急行し、次郎に附添つていたことが認められる。以上の事実に〈証拠〉を考え合わせると、井藤部長は次郎の代理人として被告大平との間に次郎の疾病につき医療契約を結び、その直後次郎の法定代理人たる原告両名において井藤部長による右契約を追認したものと解することができる。そうすると、被告大平は右契約に基づき次郎に対し、その症状を的確に診断し、適切な治療をなすべき債務を負担したものといわなければならない。

二ところで、被告大平は次郎が被告医院に運ばれて来た時には既に手遅れの状態であつたと主張するので、この点から判断する。

次郎が被告大平の許に運ばれた時の症状は第二の二の1、2に認定したとおり、意識喪失、瞳孔散大、体温40.6度、心音微弱、脈搏は微弱かつ一分間に一二〇の頻脈、最高血圧水銀柱五〇ミリメートル、最低血圧測定不能、白血球数一万であつたが、〈証拠〉によると、次郎の右症状は以下の理由により、極めて重篤な状態であつたものと認定することができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

すなわち、熱射病に罹患すると、当初瞳孔は縮瞳し、症状が末期になると散瞳する。体温は四一度から四二度以上になると全身、殊に中枢神経、肺、心臓、肝臓、腎臓に重篤な変性が生ずるところ、次郎は意識喪失、瞳孔散大の状態にあり、体温も腋窩温40.6度であるから、直腸温度にすると四一度から四二度近くであり、循環系のショック状態にあり、急性の心不全に陥つていた。脳の中枢神経に対する血流は平均血圧と平衡し、脳へ血液が循環する最低の血圧は、平均血圧で水銀柱五〇ミリメートルであるというのが学会の定説であるところ、平均血圧は最高血圧に対して低い値となるが、次郎の場合、最高血圧でさえ五〇ミリであり、最低血圧は測定不能であつたのであるから、脳へ行く血液は非常に少いか、ほとんど途絶に近い状態にあつたとも考えられ、脳浮腫の著明な変化が起き、脳障害も非常に大きいと推定される。次郎の意識が消失していたということは、病態生理学的に考察すると、脳内部に器質的(解剖学的)変化がなくとも脳浮腫が生ずる等の変化が生じ、非常に重篤であつたことの証左である。そして、循環系のショック(急性心不全)の程度は処置が適切であれば回復可能な可逆性ショック状態と、どのような処置を施しても死亡するに至るという不可逆性ショック状態に分類されるが、次郎に生じていた循環系のショック(急性心不全)は、後者に該当し、その場合最善の治療を施しても九〇パーセント以上が死の転帰をとるものと認められる。

三以上のとおり次郎が被告大平の許に運ばれた時は、既に極めて重篤な不可逆性の急性心不全の状態にあつたことが認められるので、同被告の診療行為により死の転帰を免れることができたとする見込は、ほとんどなかつたものといわなければならない。したがつて、被告大平の本件医療契約上の責任を次郎の病状回復の観点からみるならば、その治療の甲斐なく次郎が死亡したことは、法律上は不可抗力であつたといわなければならない。

してみると、被告大平の右主張も理由がある。

第五結び

以上のとおりであつて、原告らの被告らに対する本件各請求は、原告らのその余の主張に対する判断をするまでもなく理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(宮村素之 佐久間邦夫 富永良朗)

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